人生100年時代のお金の学校

講師│プロフィール

ファイナンシャルプランナー
佐藤 健人(さとう たけと)

秋田県出身・双子座・O型・一児の父です

【保有資格】

ファイナンシャルプランナー/住宅ローンアドバイザー/行政書士/宅建取引士/貸金業務取扱主任者ほか

【趣味】
毎日投資すること

LiFEコンシェルジュ株式会社 代表
自由が丘行政書士事務所 代表
所在:東京都新宿区西新宿7-17-14
フリーランスFP

主な経歴

  • 大学卒業後、建設コンサルタント(上場企業)に就職
  • 法律事務所に転職
  • 行政書士として独立
  • 自らの保険で失敗したことをきっかけにファイナンシャルプランナーに
  • 保険代理店をスタート、会社設立
  • 保険代理店をやめて、「人生100年時代のお金の学校」を開設
  • 資産形成、相続、住宅を専門としてコンサル、セミナーを行っている

情報発信サイト

秋田県に生まれる

私は、1979年に秋田県の横手市という「かまくら」で有名な雪深いところで、農家の長男として生まれました。

今では身長180㎝を超えていますが、身長45㎝、体重2350グラムのいわゆる未熟児でした。

農家といっても、大規模ではなく兼業農家でした。農業だけで生計を立てるのは難しかったのです。

農家の場合、ほとんどが父と祖父で働く二馬力なのですが、うちの場合は父だけでした。

祖父は、私が生まれたときすでに左膝が曲がらない身体障害者でした。

身体障害となった理由は、医療ミスだったようです。本人から聞いた話ですが、抗生物質があったから命が助かったのだと。親戚の人からは脚を切断したほうが良かったという話もありました。

しかし、今ほど身体障害者に対する理解がなかった時代に「脚の切断」を避け、「麻酔なしの手術」を選択したとのことでした。
健人(タケト)という名前は、祖父が命名してくれたそうです。

でも、私は当時その名前をあまり好きではありませんでした。

小学校に入るまで、病弱だった私は、生まれてから入退院を繰り返したり、風邪を引いては病院に行っていたのですが、病院で名前を呼ばれるときに必ず間違われるのです。

「ケントくーん」と毎回呼ばれてウンザリしてました。

今となっては素晴らしいネーミングセンスだと感謝していますし、「健康であって欲しい」という強い願いが伝わってきます。
私は、爺ちゃん子で、よく爺ちゃんから戦争の話を聞いたり、将棋を教えてもらったりしました。

将棋はかなりハマって、小学6年生になったときにはすでに爺ちゃんよりも強くなってしまい、爺ちゃんは私と将棋をするのが嫌になってしまいました(笑)

それまでは、私がもう一回、もう一回と勝つまで相手をお願いしていたのに、今度は爺ちゃんが「もう一勝負」と言うようになったのです。

当時はなかなかの腕までだったので、担任の先生と将棋を指しながら給食を食べることがありました。

これがかなりの苦痛でした。

早く給食を食べて一秒でも早く体育館に遊びに行きたかったからです。

小学校時代の3大事件

病弱だった私は、入院したりして保育園を半分くらいしか通えなかったのですが、小学校に入ってから徐々に体が強くなっていきました。

身長も伸びてクラスで後ろから2番目になっていました。


「じゃあ帰ります」事件

2年生のときです。
忘れ物が多くて先生に怒られることが多かったです。

忘れ物が原因か、テストの成績が原因かは忘れてしまいましたが、先生にビンタされて「帰れ」と言われたので、そのまま帰りました。

この話は、今でも同級生に言われて笑いのネタになっています。

2年生のときの担任の先生は、若い女の先生でした。
出産間近のためか、かなりヒステリックで、悪いことをした子の手にハサミなどの刃物を当てながら怒ったり、牛乳を飲めない子に無理やり飲ませたりと。

今だったら事件になっていますね(笑)


バスケ練習ボイコット事件

3年、4年生のときは、怖い男の先生でした。
しかも、なんと私の父と同級生。

それもあってか、十分すぎるほどの「痛い」愛情をもらいました(笑)

その先生の「バスケやってみるか」のひと言がきっかけで、4年生から放課後にバスケの練習をするようになりました。

私はその先生が好きだったので、そのままバスケを教えてもらいたかったのですが、5年生になる前に他の小学校に異動となってしまったのです。

5年生の新任となった先生は、他行から異動してきたバスケ部の顧問でした。
しかし、折が合わず、バスケの練習をボイコットして、5年生全員を引き連れてバスケをやめてしまいました。


「お母さん、学校に来てください」事件

6年生のときです。
放課後に、数人の友達と花火や爆竹などで遊んでいた延長で、火遊びとなってしまいました。

近所の方から学校に通報があり、その翌日、担任の先生に職員室に呼び出され、その時の状況を詳しく聴取された上に、火遊びをした現場まで連れていかれて現場検証まで行うことになってしまったのです。

まるで、逮捕されたようでした。

担任からは「校長先生は親を学校に呼ぶように言っている、でも正直に話してくれたらそうはならない」と聞かされていたので、火遊びの終始について正直に話をしました。

しかし、その数時間後、親が学校に来ていたのです(笑)

火遊びをしていた私たちが悪いことは分かっていましたが、それ以来、私たちを裏切って、嘘をついた先生たちを信用することは出来ませんでした。

その事件以降、遊びに出かける度に「火遊びするなよ」と自分の親から、友達の家に行く度に「火遊びするなよ」と友達の親からもマークが厳しくなってしまいました。

私たちは火遊びは悪いことだと認識しながらやっていましたし、もちろん火事とかにならないように民家から離れた畑でやっていたので大丈夫だと思っていましたが、やはり火遊びはいけませんね。

高すぎ!ぼったくり孫の介助サービス

爺ちゃんは左膝が曲がらない身体障害者だったので、自分で靴下を履くことが出来ませんでした。

なので、私は小さい頃から爺ちゃんの靴下を履かせる介助サービスをしていました。

もちろん、タダではなくて、爺ちゃんからお小遣いをもらっていました(笑)

小学校3年生か4年生のとき、爺ちゃんが肺気腫という病気になってしまいました。

それからは、靴下だけでなく、トイレまで酸素を運んだり、風呂介助をやったり、散髪をやったりしていました。

命がけでトイレに歩いていく爺ちゃんの姿は見るに堪えないものでした。

今みたいにヘルパーなどの介助サービスがなかった時代に、私が介助サービスを行っていました。

それも、とても高い料金で(笑)
当時は、最低限の介助しかしてなかったことを思うと、もっと散歩などを取り入れたクオリティの高いサービスを提供してあげれば良かったなと、今でも思い出したりして後悔してます。

爺ちゃんは、病院に行く以外は自分から外に出たりすることはしなかったので。

バスケ三昧の中学校時代

目指せ全国大会!

ちょうどスラムダンク世代で、中学校時代は、「全中に行くぞ」と頭の中はバスケでいっぱいでした。
練習も厳しく、お盆と正月の数日を除いてほぼ毎日という感じです。

部活動の中でもバスケ、バレーが強く、勝って当たり前のような空気感がありました。
もちろん、顧問の監督はこわーい先生です(笑)
当時は殴られて当たり前の世界でした。

うちの中学校からはバスケでプロになった先輩が何人もいて、とても盛んなスポーツでした。
こんな人口の少ない所からどうしてそんなに凄い選手が生まれるのか不思議に思っていました。


うちの学校は他行より練習環境に恵まれていました。

通常、コートは2面で、バスケ部、バレー部でそれぞれ1面となり、男女でそれぞれハーフコートでの練習となります。

うちの中学校のすぐ近くに町の体育館があったため、バスケ部はそっちで、バレー部は学校の体育館でというように練習することが出来たのです。

休日の練習は地獄でした。

午前は男子、午後は女子と練習時間を工夫することで、なんとコート2面で練習することが可能になるのです(泣)

しかも、当時は練習中にほとんど水も飲めない時代でした。

風邪もひいてないのに、マスクを2枚重ねてつけて長距離を走ったりも。(汗でマスクが濡れてくると、より息苦しくなる)

もちろん、ケガも多かったです。

しかし、最後の大会でライバル校に勝つことは出来ませんでした(泣)

ゲーム終盤追い上げるも6点差を残して、夢は叶いませんでした。

結果、準決勝で敗れ、県大会3位で終わりました。


ライバル校はというと、東北大会も圧勝で優勝し、そのまま全国大会でベスト8まで行ってしまいました。
その受験は認めない!

バスケが終わると今度は高校受験です。

私は家から近い進学校の湯沢高校(菅総理大臣のご出身校)を受験しようと考えていました。

しかし、担任は三者面談のときに、私と母を前にして「横手じゃないとハンコを押さない」と言い出して、本人の希望する受験を認めないと言い切ったのです。

私も母も「ポカーン」

そして、推薦入学という方法があって、担任が「オレが推薦してやる」と。

ただ、横手高校の場合、推薦だからと言って受かるわけではなく、推薦入学独自の試験があると。

その試験はどのようなものかは全く不明で、試験対策を取ることもできないものでした。

私の中では、その試験がダメだったら、予定通り湯沢高校を春に受験すればいいやと軽く考えて、やむを得ず担任の言うとおり、推薦入学という方法を取ることにしたのです。

そして、何の対策も取ることもできずに試験当日を迎えました。

試験といえば、ペーパーテストだと思い込んでいたのですが、なんと、口頭試験だったのです。

英語、理科、数学でそれぞれ20分くらいだったと思います。そして最後に、校長室で、校長先生とガチ面接。

緊張のあまり、何の話をしたから全く覚えていませんが、校長先生とバスケの話をした記憶があって、その場でジャンプしたことは覚えています(笑)

手応えの方はというと、何となくスムーズに進んだ感じで悪くありませんでした。

合格発表は教室で!

普通、合格したかどうかは担任から個別で告げられるものだと思いますが、うちの担任は違います。

皆がいる教室で、ゲームのように楽しみながら告げるのです。

担任が「オレがお前の手を握ったら合格、握らなかったら不合格だ、いいな」と。

私は、ゆっくり立ち上がって担任の前に立ちました。

・・・・・・

時間は思ったよりゆっくりと流れ、担任が「合格だ、おめでとう」と手を握って、私の受験は終わりました。

嬉しさよりも、安堵感の方が強く、複雑な気持ちでした。

実は、これが私の「推薦人生」の始まりとなり、以降リスク回避の人生となっていくのでした。

バスケの楽しさを知った高校時代

頭を使ったバスケ!

私は、中学3年間でバスケをやりすぎて燃え尽きてしまっていましたし、あんな厳しい練習なんかもうしたくないと思っていたのです。

進学校だし、特にバスケが強い高校でもなかったので、バスケを続ける気持ちはほとんどありませんでした。

しかし、中学時代の友人からの誘いもあって何となくバスケ部に入ることにしました。(すぐにやめちゃえばいいと)

ところが、偶然にも高校の先輩が部外コーチとしてバスケを教えてくれることになったのです。

中学までのは名門・能代工業の真似をしたバスケのような感じでしたが、それとはまったく違う新鮮な感じがしたのです。

練習時間は2時間もないので、体力勝負は無理ということで頭脳勝負といった感じです。

しかも、メンバーにも恵まれ、なんと平均身長180㎝のチームが出来たのです。

トリッキーなパスや戦略、どれも楽しすぎました。

ロースコアでも、1点差でも勝ちは勝ち。
これまでとは違った形で勝ちにこだわる。
途中、練習をサボったり、次の大会が終わったら辞めるとか何度もありましたが、チームに支えられて最後まで何とかバスケを続けることが出来ました。

今でも鮮明に覚えています。

最後の大会、ライバル校とのゲームで、ラスト2秒からの逆転劇。

そのとき、ボールを持っていたのは私でした。点差は1点差。

3Pシュートは要らない。私はそう考える前に自然にパスを出していました。

その相手は、私を高校バスケに誘った中学時代の友人でした。

なんと、ラストプレーを活かして逆転してしまったのです。

・・・・・

その後も順調に勝ち進み、なんと準決勝まで行ってしまい、高校バスケの王者・能代工業と対戦することになったのです。(当時、田臥選手は2年生でしたが、とてもバランスの良いチームで最強でした)

私たちにとっては、ある意味全国大会の決勝戦くらいの価値があります(笑)

もちろん、ダブルスコアくらいで負けましたが、何の悔いも残りませんでした。(能代工業は、全国大会の決勝でもダブルスコアの圧勝でした。)

結果、県大会3位という成績を残すことができました。

同じ県大会3位でも、中学のときは悔しい3位で、高校では嬉しい3位になりました。

こうして、部活動としての私のバスケは幕を閉じました。
残り時間「2秒」でも諦めてはいけない、まさに「諦めたら、そこで試合終了ですよ」を学ぶことが出来たバスケ人生でした。

大学進学はもちろん推薦入学で

推薦入学で高校に進学しましたが、普通科ではなく「理数科」でした。

高校に入って先輩から聞いて知ったのですが、理数科なら指定校推薦が使えるということでした。

なんと、大学進学でも「推薦入学」が使えるではありませんか(笑)

それを知ってしまった私は、指定校推薦がどのようなものかも知らずに、高校1年生から「推薦入学プラン」をぼんやりと考え始めたのです。

バスケをしながらですが、中間、期末とテストだけは頑張るようにしました。

そして、高校3年になったときに評定値(評定平均)が分かりました。

なんと、4.5

これで推薦入学が使えると思った瞬間、大学受験合格よりも嬉しかったような記憶があります。

特別、どこの大学に行きたいという訳ではなかった私は、なんとなく上位から、明治、東京理科大、芝浦工大・・・とかの要項を眺めていました。

ところが、ある事情によって今年の明治枠はなくなったということで、東京理科大と芝浦工大を検討していました。

色々と調べていくうちに、東京理科大は他よりも厳しく留年率が高いということ、大学1年目は北海道キャンパスということが分かり、選択肢から消えました。

留年は嫌だし、秋田より寒い北海道も嫌という単純な理由です。

ほぼ芝浦工大で決まりかなと思っていたら、担任の先生から呼び出され、同じクラスから芝浦工大に行きたい人がいるということを知らされ、遠回しに譲ってくれないかということでした。

即答はしませんでしたが、他の選択肢も考えてみました。

武蔵工大、千葉工大・・・。

なんと、武蔵工大は世田谷キャンパスで、しかもバスケットコートがあるではないですか。

この瞬間、私の進学先は決まりました。

なんとしても秋田を脱出して東京に行きたかったのです。

しかも、好きなバスケが毎日できる。
・・・・・

ただ、私立理系の授業料、家賃、生活費・・・・どうしよ。。

授業料だけで毎年150万円・・・(泣)

三者面談では、当然、先生からも親からも国立がいいという話でしたが、私の心はすでに東京に行ってしまいました。

その解決策は、奨学金しかありませんでした。

高校在学中に返済型の奨学金を契約することができ、なんとか秋田脱出に成功しました。

そして、幸運にも大学入学後、給付型の奨学金も受け取ることができ、なんとかキャンパスライフを送ることができたのです。

もし、給付型の奨学金がなかったら、新聞配達をする新聞奨学生とかも考えていました。

就職もやっぱり推薦!?

大学では毎日バスケをしてキャンパスライフを楽しんでいました。

知り合った友人たちもバスケ経験者が多く、大学でのストリートバスケはほぼ日課になっていました。

もちろん、勉強もそれなりにやっていました。

というのは、指定校推薦で入学すると、大学での成績が高校に送られてしまうからです。

例えば、私の成績が悪いということになると、指定校推薦枠が取り消されてしまい、母校や後輩に迷惑をかけてしまうことになります。

常に上位10%の成績になるように気を付けていました。

これが私が出来る唯一の母校に対する感謝でした。

大学4年間もあっという間に終わりを迎え、就職活動の時期になってしまいました。

当時は就職氷河期ということもあって、就職するか、大学院に進学するかという問題もありました。

大学から推薦をもらってはいたのですが、経済的に大学院進学は難しいので、就職するしかありません。

そんなとき、一つの求人票が目に留まりました。

賞与13カ月

しかも、自分が所属している研究室の教授が昔いた会社です。

この会社に就職すれば、早く奨学金の返済が出来ると考えたのです。


まず教授推薦持ってきて

すぐに会社に問い合わせをしましたが、推薦が必要とのことでした。

しかも、私が知るこれまでの「推薦」とは違うようです。

推薦は受験資格で、あくまでも試験結果で決めるとのこと。

筆記も面接も手応えがあって、無事に受かりましたが、入社同期はほぼ院卒で、学卒は私ともう一人だけでした。

しかも、京大院卒など、国立大ばかりで私立学卒は私くらいで肩身が狭い思いをしました。

こうして、就職氷河期の最中ですが、幸いにも就職することができたと同時に、奨学金という名の借金を背負っての社会人として債務者デビューを果たしたのです。

残ったのは借金だけ、マンガのような人生の始まり

賞与13カ月はウソだった

入社して一日も早く奨学金を返済しようと考えていた矢先、会社の先輩から「ボーナス13カ月というのはもう数年以上も前の話だよ」と教わりました。

・・・・・・


人生の選択ともいえる就職でしくじってしまったことに気付いた。。


その会社の実態はというと、

毎月100時間残業は当たり前、繁忙期になると月200時間にもなって、もはや人間らしい生活は出来ない(泣)

少なくとも100時間残業していないと、仕事をしていないと見えないレッテルを貼られる

残業代は一部しか出ない

その代わりに夕食代が出る

「飯をタダで食わせるからタダで働け」というようなもの

それでも当時はありがたいと思っていた

・・・・・

当時の自分はただ愚かだったとしかいいようがない

社会という戦場に何の武器も持たずに丸腰で行くようなものだ

会社には天下りの高給取りが沢山いて、その人たちのために若手が働いているように感じた

まさにかつての日本社会の縮図のようだった
入社1年目、前十字靭帯断裂

残業で忙しい日々を過ごしながらも、楽しいバスケで何とか息抜きができていた。

ところが、気持ちに体がついていかず、ケガをしてしまった。

数か月後、「靱帯断裂」で入院手術、入院期間は5週間を必要とするとの診断。

入社1年で有給休暇も十分ではないので、欠勤となってしまう。

会社は「欠勤」が将来の人事評価に影響するから、入院中も仕事をしろというのだ。

・・・・・

残業代さえ満額支払わないのに、ふざけている

こんな会社で一生働くなんてごめんだと率直に思った
民法との出会い

手術をするまでは歩けたのに、手術後は歩くどころか脚が動かせない。

車いす生活の始まりだ。

手術しないほうが良かったかなと少し後悔した。

普通に歩けるということは幸せなことだと身をもって感じた。

足が不自由だった爺ちゃんを思い出した・・・

術後は毎日微熱が続き、体がだるかった。

でも、残業の毎日から解放され、余裕が生まれたので勉強するようにした。

「ナニワ金融道」や「カバチタレ」の影響もあって、独学で民法の勉強を始めた。

このころから、行政書士という仕事に少しずつ興味を持ち始めたのだった。

やっぱり会社、辞めよう

入社2年目、出張中に今でいう「あおり運転」に遭遇、交通事故(正しく言うと刑事事件)が起きたものの、上司を含め、会社は何の対応もせずに個人の問題として済まそうとした。

実際何もしてくれなかった。

上司も同乗していたのに。

逆に、私が何か対応しようとするとなだめようとする。

もう訳が分からない。


警察は助けてくれない

仕方なく、警察に足を運んで交通課に相談すると、それは刑事課に行ってくれと。

刑事課の人は、何か面倒くさそうに「証拠はー!」と一言。

これ、警察じゃなくて、ヤクザじゃないと目を疑った。

これを機に、自分を守るためには「法律知識」という武器が必要だと強く感じるようになって、入社3年目にしてようやく転職を決意した。
転職先は、未定

とにかく会社を辞めよう。

この会社は、定年退職で会社を去っていく人よりも入社して数年で去っていく若手が多かった。

やっと、私もその一人になった。

なってしまった。。

・・・・・

私の全財産100万円ちょっと、借金300万円近く(奨学金)

そして、無職(笑)

大学で勉強した教科書やその他一切のものを捨てた。

同じ職種にこれ以上興味も持てなかった。

これまでに専門性にかけた時間やお金は何だったのだろう・・・

授業料だけでも600万円以上、4年間という時間。

果たして、奨学金を借りてまで大学に行くべきだったのか・・・

分からない。

頭が真っ白になって、将来の不安にも襲われた。

でも、なぜか希望だけはあった。

残されたのは、奨学金という名の借金300万円と、何の根拠もない希望だけだった。

・・・・・

就職活動をスタート

就職先は、「弁護士事務所」に決めて履歴書を100通以上書いた。

当時は、すべて手書き。

弁護士事務所を選んだ理由は、単純だった。

自分を守るための武器を手に入れるためだ(笑)

あまりにも短絡的すぎて、まるでマンガみたいな話だけど、当時は真剣だった。

人生が変わった弁護士との出会い


面接当日、かなり早い時間に着いてしまったこともあって、予定よりも早く面接をしてもらいました。

どうせダメだろうと思いながらも、ワクワクしながら面接に臨みました。

話はトントンと進んで、いつから来れるということに。

もしかして、面接合格?

その日、私以外にも一人面接が入っていたようです。

後から聞いた話ですが、その人は経験者で行政書士資格も持っていたと。

なぜ、私が採用されたか分かりませんが、その日早く面接してもらって良かったことは間違いないです。

・・・・・

ただ、実務経験のない私は、その後どう仕事をしていけばよいのか全くイメージできていませんでした。
まるで「スーツ」のような弁護士事務所時代

ところが、入所してすぐに実務案件を任せられてしまったのです。

研修とかそんなものはありません。

それから私は、事件を担当するたびに実務書を3~4冊を読破しながらという感じでした。

そんな感じで、民事、刑事と幅広く事件を担当するようになっていきました。

・・・・・

そしてその後、私は思いも寄らない能力を発揮していくのでした。

この先は、ここでは書けないことの方が多いので、続きはセミナーで(笑)

ついに行政書士として独立・開業

弁護士事務所で5年以上の実務経験を経て、行政書士として独立。

この経験は私の人生の宝物となりました。

・・・・・

華々しく、独立開業スタートといきたいとこでしたが、開業資金300万円を借りてのスタートです。

再び、債務者としてもスタート。

ところが、開業して1年も経たないうちに、東日本大震災。

人生で初めて、自分の力ではどうにもならない状況を知ることになりました。

メンタルは崩壊。

でも、何とか続けました。

無理でも続けるようにしました。

そうして乗り越えてきました。

自分の保険で失敗!?

そうだ、ファイナンシャルプランナーになろう!

行政書士として独立開業後、相続を専門にコンサルしてきました。

相続対策として、生命保険を活用することがあるので、遺言書の作成と一緒に生命保険も扱えたとしたら、お客さんも便利で喜んでもらえるだろうと考えたのです。


当時は、ファイナンシャルプランナーって保険屋さんのことをいうのかなといった認識しかなく、その資格や仕事内容はよく分かっていませんでした。


「自分の保険」で失敗してファイナンシャルプランナーに


当時、保険のことは1ミリも分かっていなかったので、親族の知り合いの方、いわゆる保険屋さんに自分と家族の保険を相談し、すべてお任せしていました。


担当の方からも、とにかく保障がいいからと言われていたので、安心していました。保険料は月額2万円ちょっとでした。


まぁ、保障内容がいいならこれくらい仕方ないか・・・と2年ほど加入していましたが、万一の安心料だとしてもやっぱり高すぎるかなと思って保険証券をよーく見てみました。


保険期間が「終身」ではなく、たったの「4年」ではありませんか。

これは高すぎる、もはや保険ではないと判断し、すぐに解約することにしました。



あのとき、「この保険は終身保険じゃなくて更新型の定期保険です」などの説明は一言もなかったのに・・・と少し頭にきましたが、早く気が付いてよかったと思うようにしました。


しかし、その一方で、「でも保険選びなんて、皆こんな感じで人に任せてしまっているよね・・・」と頭に浮かび、そもそも保険のことなんて知らない人の方が多いのではと思いました。


そして、自分と同じ失敗をして欲しくないと思い立って勉強を始め、ファイナンシャルプランナーの資格を取得したのがきっかけでした。


ファイナンシャルプランナーになった後、自ら保険を取り扱うようになりました。
いわゆるFPという名の保険代理店です。


というのは、自分が保険で失敗した原因は「保険商品を比較しなかったこと」があると考えたからです。


そのため、多くの保険商品を取り扱って、その違いを比較したうえで保険を選んでもらいたいと考えたのです。


また、保険に貯蓄機能があるということを知って、当時は少しでも予定利率の高い保険を提案することがお客さんのためだとも思っていました。


しかし、低金利にともなって予定利率も下がるようになってきて、そもそも保険で貯蓄をすること自体に疑問を持つようになりました。


そもそも、どうして保険で貯蓄できるのか、保険で貯蓄する人のメリットは何か、保険会社のメリットは何か、そしてデメリットは何か・・・、保険で貯蓄することは本当にリスクがないのか・・・と。


そう考えているうちに、「そもそも保険って何」と基本的なことにさえ疑問を持つようになりました。


そして、ある大変なことに気が付いてしまいました。

それは・・・自分が保険で失敗した原因は「保険商品を比較しなかったこと」ではなく、そもそも「お金の正体」を知らなかったということだったのです。


「お金の正体」を知り、銀行や保険会社、証券会社などの金融機関の儲けのカラクリを知り尽くしたとき、保険を扱うFPでいることに違和感を覚えました。


その違和感がだんだん大きくなって、現在の完全フリーランスという形になりました。

社会人になった人や結婚した人に必要なのは「保険」などではなく、「お金の知識」だと。

銀行や保険会社に勤務している方からも相談を受けてきましたが、金融機関で働いているお金の専門の方でも実は「お金の正体」を知らない人が多いです。

むしろ、知らないのが当たり前かもしれません。

学校ではお金の勉強をすることってないですから。
(実際、知らないのが当たり前では大変マズイです)


どうしてかというと、「知らないと損をしてしまう」からです。その「損」は決して小さくありません。

具体的な金額にすると、200万円~500万円

ちなみに、私は150万円ほど損をしてしまいました。早く知ることができたのでこれくらいで済みました。


もちろん、人によって違いますが、定年まで気が付かないままだと、1000万円近くなってしまうこともあります。

長生きはリスクと言われるようになった人生100年時代を生きる私たちだけでなく、将来を生きる子どもたちのためにもマネー教育が必要です。

マネー教育は「お金を増やす」ための知識だけでなく、自分の「お金を守るため」の知識としても必要です。

試験勉強をして学力を上げることも大切ですが、社会に出てからその知識が何か役に立つことってどれくらいありましたか?

学力が高いと学歴も高い傾向にあります。

しかし、学歴が高くても「金融リテラシー」が低いというのが日本の実情です。

時代は変わりました。

学力教育によって「正解を出す力」よりも、ファイナンシャル教育によって「お金との付き合い方を考える力」を養うことの方が社会に出てから役に立つのではないでしょうか。


誰もが「お金」と関わっていかなければならない中で、ファイナンシャル教育こそ「生きた勉強」、必ず役に立つはずです。

「人生100年時代のお金の学校」を開設した一つの想い

子どもの「貧困」をなくしたい・・・


貧困の主な原因は、親の経済力です。
ほとんどの場合が「ひとり親」であることが多いと言われています。


なんと、2人に1人以上の割合・・・


日本では格差が少しずつ拡大していますが、あまり気付かないと思います。


なぜなら、日本の貧困は、途上国であるような分かりやすい貧困ではなく「見えにくい貧困」だからです。
相対的貧困と言われています。


貧困について深く考えさせられた番組があります。


それは、「ハイパーハードボイルドグルメリポート」という番組です(テレビ東京)。



私は、セミナーなどで、3つのお金の使い方(消費、浪費、投資)をお伝えすることがありますが、この番組を見たとき、「お金の使い方」について深く考えさせられました。


それは、人のためにお金を使うことです。
見返りを求めない投資というべきでしょうか。


自分のためだけでなく、人のためにお金を使うことで「自分も幸せになれる」


もちろん、私一人が小さな金額を毎月「寄付」したところで何かが変わるわけではないかもしれません。


でも、一人でも多くの人が「お金の使い方」を意識することで変わってくることってあると思います。


私一人だけじゃなく、多くの人が小さな金額を毎月寄付したらどうなるんだろうと想像しながら行動に移しました。


預貯金として必要以上に貯め込むではなく、投資に回すということで社会全体も良くなってきます。


ひと月を振り返ったときに、「買わなければ良かった」と後悔するものが一つくらいはあるかもしれません。


または、買ったけど「そんなに必要なかった」と思うこともあるかもしれません。


もしそうなら、人のためにお金を使って良かったと思うことも悪くないのかもしれませんね。


寄付も、投資も、小さい金額から始められます。
まずは始めることが何より大事です。

人生で改めて考えさせられた「貧困」

食うこと、すなわち生きること・・・

はじめてこの番組を見たとき、あまりにショックが大き過ぎて頭の中は真っ白になり、涙が止まらなかった

普段、「何を食べようかな」と美味しいものを食べようと考えることはあっても、「生きるために食べる」ことを深く考えることもなく過ごしているこの時代に、ただ食べるために子どもたちが働いている・・・

ダイエットで悩んでいる人もいれば、生きるため、食べるために働いている子どもがいる・・・これが現実

14歳の子どもが、必ず病気になると知りながらも「食べる」ためだけに劣悪な環境で働いて毎日を過ごしている、もちろん学校には行っていないし、シャワーを浴びるのも1週間に1度。

今も厳しい環境にあることは間違いないけど、この子どもの将来、人生を思うと悲惨なイメージしかできない。

いつまでその劣悪な環境で仕事をするのだろうか・・・恐らく「病気になるか、死ぬまで」と想像することは難しくない。

30年以上も前にアフリカの子どもたちが飢餓で苦しんでいるのをテレビでよく見た記憶があるが、今も変わっていないということだ。

子どもたちは割の合わない仕事を

「残飯」が食べ物として売られている。

その残飯は、ファストフード店で食べ残されたもので、子どもたちが夜遅くにゴミ回収とともに集めたものだ。

ゴミ回収に必要な運搬車(バイクなようなもので、適当にエンジンをつけたもの)を大人が用意し、それを子どもたちが借りる。

当然、タダで貸すわけではなく、子どもたちがゴミを分別した中で、残飯よりも単価の高いプラスチック類を売った分が大人の取り分になる。

子どもたちが集めた残飯、骨付きのフライドチキンのようなものを再度、油で揚げて食べ物として売られることになるが、空腹に耐えきれずその残飯を商品にする前に食べてしまう子どももいる。

このような中でも、資本主義のルールは存在していた。

大人は「資本家」で、運搬車という資本を提供し、子どもたちは「労働者」で、労働力を提供している。

もしかしたら、搾取という表現が適切かもしれないが・・・

お金持ちをどう思うか?

ケニアのゴミ山で暮らして4年になるという少年の「お金持ちに対する考え」がずっと頭に残っているので紹介したい。


取材ディレクターの「お金持ちをどう思う」という質問に対して、その少年は「一方では好きだけど、一方では嫌い」という。


その理由は、「お金持ちは貧しい人を救うべきなのに、助けてくれない。けど、お金持ちでなければ貧乏人を救えないから」ということだった。


少年は、ゴミ山で米と煮豆を空き缶で炊き上げて赤飯のようなものを作り、「お金があればもっといいものが作れたのに」と一言添えて取材ディレクターにも分けてくれていた。


取材ディレクターが、最後に「今幸せ?」と問うと、その少年は穏やかな表情でこう答えた。


「あなたに会えたから幸せだよ」と・・・


もし、自分が少年のような境遇にあったなら、きっとお金持ちを恨むようなことを言っていたに違いない。

子どもの貧困は海外だけじゃない!?

貧困には途上国で見られる、必要最低限の生活水準が満たされていない状態の「絶対的貧困」と、ある特定社会の集団の中で、大多数の標準に比べて貧しい状態の「相対的貧困」があり、日本もその例外ではなかった。

日本の子ども6人に1人が「貧困」状態

日本の子どもの貧困率
2012年に16.3%で「6人に1人」
2015年に13.9%で「7人に1人」

ひとり親世帯で2人に1人以上が貧困、先進国で最悪の水準

相対的貧困とは

所得という観点からいうと、日本においては、可処分所得が年間122万円以下の場合に該当する。

貧困は連鎖していく、親から子へ、子から孫へ・・・
所得格差が教育格差を生み出す

貧困の一番の問題は、親から子へ、子から孫へと連鎖してしまうこと。

親の経済的貧困により、子どもが学校外教育や学習の機会喪失となり、学力低下につながってしまう。

その結果、低学歴になってしまった子どもは、就職も難しくなってしまい、所得の低い職業を選択せざるを得なくなってしまう。

そして、貧困世帯の子どもは、親になっても再び貧困になってしまい、その次の世代にも経済的貧困が連鎖してしまう。

生活保護を受ける母子家庭では、母親の7割近くが中卒や高校中退などの低学歴で、母親自身も半数近くが生活保護で育ったという調査結果があったり、生活保護世帯の4人に1人が大人になっても生活保護を受けているとも言われている。

どうして自分だけ」から「どうせ自分なんて」に、自己否定感が強く

「貧困の連鎖」は所得格差による教育格差だけが原因ではない。


貧困家庭で育っても、塾に行けなくても、中卒の学歴しかなくても、就職できず非正規雇用だったとしても、貧困からの脱出できるタイミングはどこかであるかもしれない。


しかし、「どうせ~しても意味ない」とか「どうせ自分なんて」と自己否定感が強いと貧困からの脱出は難しくなってしまう。


マネー教育によって貧困の問題を解決できるというわけではないが、教育格差を小さくする一つの手段となり、貧困から脱出するきっかけになればと考えている。


学力で稼げないのであれば、他に稼ぐ方法を知ればいい。
人生、学力だけで生きていくわけではないし、学力だけで生きていく方が難しい時代だから。


これからを生きる子どもたちのために支援を続けていきたい。

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